西南戦争後、西郷隆盛の復権に尽力した盟友・黒田清綱
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第32回 ~黒田清綱~
○圧倒的な遊び心!遊び心60%!(食神、傷官)
遊び心は、生活に遊びを取り入れることが自然とでき、芸術面での才能がある星。「食神」は、皆でご飯を食べたりお酒を飲んだり遊ぶのが大好きな星。おおらかで子どもっぽい面を持つ。「傷官」は、芸術性が高く感情の起伏が激しい星。まさに繊細な芸術家のイメージである。また、男性で持っていると、傷つきやすい面を持つ。
清綱がおおらかであったというイメージは、正直なところ、史料からは読み取れない。養子であった、画家・黒田清輝が法学の勉強をしにパリに留学するも「画家に転身したい」と言い出した際にはそれに反対し、清輝が結婚したいと連れて来た女性、金子たね(後、照子)を最期まで認めようとしなかった(清綱の死後、たねは北海道在住の南鷹次郎の養女となりその後正式に清輝の妻となった。)等、厳格なイメージが強い。武士、子爵家というお家柄、家を守ることに徹し、本来の性格を出せなかったのかもしれないが、もしかしたら、おおらかで明るい遊び好きの面もあったのかもしれない。
しかし、「傷官」のイメージは強い。清綱は国学者・歌人である八田知紀に和歌を学び、麹町に滝園社(たきぞのしゃ)を建てて門人を育てた。明治一の歌人と言われ、明治天皇、大正天皇の御製の指導にも当たった。清綱の歌として、「長閑にも けさこそたてれ 大君の 千代田のみやの 春のはつ風」「みやこ人 さくらかりして かへりくる 大路に匂ふ 春のよの月」等が残っている。
また、鑑定結果に示されたように清綱は芸術性が非常に高かったことから、筆者はそもそも清輝の才能を発見したのは清綱だったのでは?と考える。1878年に狩野派の画家・樋口探月(たんげつ)に日本画を学ぶがまもなく中止。清綱はそれを惜しみ、細田季治(すえはる)に鉛筆画と水彩画を学ばせたという。それもほどなくして中止してしまうのだが、子ども時代の清輝に何か光る才能を感じたのだろうか。
○行動力30%(偏官)
「行動力」とは、頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強い星。「偏官(へんかん)」は、行動的攻撃的で野性的な星である。足で稼ぐというイメージだろうか。セールス等も得意。
清綱が世に知られるようになった出来事として、1863年(文久3年)の八月十八日の政変により失脚し七卿落ちとなった、三条実美ら五卿を守ったことがある。1867年(慶応2年)、第二次長州征伐の際、大宰府にいた五卿(病死した錦小路頼徳と逃亡中の澤宣嘉を除いた5名)を幕府が大坂に連行しようとした。しかし、その際、清綱は藩命を幕府の使者である監察・小林甚六郎と直談判して移送を阻止した。その時の様子を記した史料(黒田家歌集)には下記のようにある。「嘉右衛門(清綱)の気概当るべからず。幕府の一小吏の如き眼中に之なし。」五卿が幕府の手に渡れば、命に危険が及ぶかもしれない。五卿を幕府に渡さんとする清綱の殺気、気概は凄まじかったようだ。清綱が率いていたのは、ほんのわずか20余名で、幕府の使者・小林は、最初清綱を田舎者と侮っていたが、「いざ火蓋を切らば衆募敵せず立ち所にみな殺しにさるるは火を見るより明らかなりし」と、圧倒され、逃げ帰ったという。清綱は、それほど強い攻撃性を備えた責任感の強い武士だったのだろう。
その後の1868年、戊辰戦争の際には、まだ18歳であった西園寺公望の参謀として、丹波、越前などを鎮撫して功を立てている。その攻撃性から、さぞかし戦上手だったのだろう。
○知性10%(印綬)
知性は何かを学ぶことが好きで、物事を論理的に捉えるのが得意。中でも「印綬」は、学校の勉強がよくできて、幅広い知識を持っている。人を教えるのも好きな性格の持ち主だ。
和歌の中に出てくる語彙の豊富さから、この点は明白だろう。